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清水みのる生家 清水書道塾と清水先生のこと 野島恭一

2019/03/12 15:08
清水みのる生家 清水書道塾のこと
KYOICHI NOJIMA·TUESDAY, 12 MARCH 2019
「森の水車」や田端義雄の歌の作詞家、清水みのる。母校北高の愛唱歌・生徒の歌「大地に燃ゆるもの」を歌うとき、高校の時からいつも内心嬉しく思っていた。清水みのるは、他人とは感じられないからだ。清水みのるとは直接会ったことはなく、ニアミスだったのだけれど、僕はこの人の兄、清水貫一先生の清水書道塾で長い間、字を教えられた。
この書道塾と清水先生のことは、どこかで記憶をつないでいかなければいけない気がしている。清水みのるの評伝では、障害のある兄のことが必ず登場する。この、障害のある兄というのが清水書道塾の清水貫一先生である。
教員になって、黒板に字を書くとき、いい加減に書くことは出来なかった。清水先生の字を汚してはいけないと思っている。父が、幼い自分を書道塾に通わせた理由がよくわかる。教員として、父は自分の字をいつも恥ずかしと口にしていた。自分にはきちんと教えたかったんだろう。もう教員を退職し、字を書くことは滅多になくなった。だからこそ、ここにその経緯を記しておきたい。

小学校1年から、中学2年まで。自分にとって、家庭外で強烈な存在はいつもこの清水先生だった。今でも、横に座って、たばこ臭い手で僕の右手を握り、一緒に字を書いた思い出が全身によみがえる。
恐い先生だった。大柄で、彫りの深い顔立ち。鋭い眼光。志賀直哉の写真を見たときああ清水先生だ、と思った記憶がある。怒鳴られた記憶が、いつも強烈に残っている。庭の蘇鉄の前にある池で筆を洗ったら、中にいた金魚が墨で真っ黒になってしまったとき。外のトイレで、おしっこを高くかける競争をして、コンクリの壁を越えて土壁にかけてしまったとき。

4年生で学級委員になったとき、先生に小学校に用事を頼まれたとき、僕は確か、何か気になることがあって嫌な顔をしたのだろう。その瞬間「なんだその顔は。だからおまえはダメなんだ。人がものを頼むとき、どうして素直に返事をできんのか。そんなことで学級委員が務まると思うか」と雷のような声で怒鳴りつけられた。
今から思うと、人には言えない不安定な家庭環境にいた自分は、書道塾で字を書くときは集中していられた。それでも、不安定さがよく字や態度に出ていたのだろう。先生は、そんな背景とは関係なく叱ってくれて、ありがたかったのだと思う。
清水みのるの評伝では、兄が身体に障害があり、弟の実はその分親から大きな期待を寄せられた、とある。兄についてはそれ以上触れられた文章にあったことはない。ところが、その兄は大変な克己心の人だった。
鉄棒から落ち、右半身が不随になった。右手はぶらんとし、歩くときは右足を引きずっていた。左手で書道を究めたのである。口に出してそのことをいうことは全くなかったが、子供心にもすごい人だといつも思っていた。どんなに怒鳴られても、清水先生なら仕方がないと思っていた。何より、その字が好きだった。その字を見ると、誇り高い生き方をした人だったと思う。
自分が、大人になって習字を再開し、書道誌に作品が掲載されたとき、作品評に「俊捷な筆遣い」と書かれた。嬉しかった。その形容が清水先生の字だと思ったからだ。いまでも、王維とか欧陽脩とかの字を見ると、清水先生の字だと思う。
清水先生の字が自分に乗り移った感じがするのは、他の塾とは違う、先生の教え方にある。普通の先生は生徒に対座するか、後ろに回り込む。清水先生は、左手で字を書くから、生徒の横に座って、生徒の右手の筆を一緒に持つからだ。その左手は、僕の右手に、字の勢い、止めはね、払いをすべて同じ筆を通して教え流し込んでくれる。麻痺した右手は、たばこをつかみ、親指が内側に湾曲して固まっている。
一緒に字を書きながら、先生が筆を持ってくれると、紙に自分の右手で素晴らしい字が書かれていくのを息を呑むように見つめていた。
10枚ほど書いて先生に見て貰い、最後に清書を提出すると、塾は終わる。週3回、日曜の午前中は、最後に長机を片付け、床をぞうきんがけをした。黒塗りの木の床を何度も磨く。今でも、床のぞうきんがけが好きなのは、そのせいだろう。
清水書道塾のおかげで、校内の書き初めや夏休みの課題の習字はいつも金賞だった。自分としては、内面は不安定で、隠れていたずらもしたし、いい生徒ではなかったと思うのだけど、今から思うと、先生は僕に期待していてくれたのだと思う。中2になって部活が忙しくなり、塾に行けなくなってやめようと言い出したとき、先生が芯からから残念そうな顔をしたことをよく覚えている。あの、ガンコで恐い先生が、こんな顔をするのかと思った。
その頃から中学校は、中体連・部活全盛の時代が始まり、中学で習字を続けることは出来なくなっていた。自分たちより上の世代は結構高校生の塾生がいたのに、僕たちのあとはいなくなった。先生としては、これからというときに寂しい思いをしたのだろうと思う。やめて2ヶ月ほどすると、自分で文字が書けなくなってきているのが本当によくわかった。筆を持っても、からだの中から筋が抜けていく気がした。中3の書き初めは初めて金賞をのがした。
塾を辞めて一年後、北高に合格したとき、清水先生から来て欲しいという連絡があった。久しぶりにお会いした先生は、寂しそうな顔をしていた。そして、合格祝いだ、と1000円をいただいた。今までは、弟の清水みのるの母校に合格したということが嬉しかったのだろう、くらいに思っていたが、今となっては、もう一度塾に戻って欲しいと言いたかったのではないかと思う。そのとき、おまえの時までだったなあ、今の子はダメだ、と寂しそうにいわれたことを今でも鮮やかに思い出す。
清水みのるがサトウハチローを伴って塾に来たとき、小4の僕は何か用事があって塾を休んだ。先生はその後何度も、惜しかった、残念だったなあ、と行っていたことを良く覚えている。しかし、先生の口から清水みのるを誇るような言葉は、聞いたことがない。自分は自分で、誇らしく生きているという矜持があったからではないか。
清水貫一と清水みのる、みのるは「實」が本字。貫と實は同じ作りに冠の有無の違い。名付けた親は伊左地の名家、医者だったはず。家を継ぐべき長男が事故で半身不随になったことを意味を考えずにはいられない。
よく、清水みのるの評伝で、障害の兄にかわって實は親の期待を一身に受けて育ち、一中(北高)に進学後、文学に目覚め、親の期待を裏切って立教の文学部に進む「文弱の徒」となった、と書かれている。苦労の末、詩人として成功する物語が描かれている。その物語りに、残された兄と実家のことは全く言及されていない。
僕が思い巡らすのは、その兄と実家の運命の方。兄貫一は、半身不随の身体で、その運命を自分のこととして引き受け、書道で身を立てる道を選んだ。障害児教育など全くなかった昭和初期に、事故後は、おそらく学校にもほとんど行かずに、残された左手で自力で書道を修め、師範となる。清水医院の、田舎の伊佐地にあって、とびぬけて瀟洒な建物を受け継いで、書道塾とし、看板を掲げた。その誇り高く生き抜いた先生の生涯もきちんとわかっていたいと思う。字は、その人の内面を表す。
清水みのるの詩集「わが浜名湖」に、たった一枚生家の写真が載せられている。僕にとっても懐かしい写真。立派な蘇鉄だった。伊左地のこの地区の小字名を清水という。

なくなる一月ほど前、大学生だった自分は帰省した折、親に言われて清水先生にお会いしにいった。自宅で、寝たきりになっておられた。横で、奥様が「この人も、わがままいっぱいに生きてきたけど、今ではこんなになってしまって」とうちわで扇ぎながらいう。清水先生がそのとき、顔をゆがめて何か言おうとし、しかし黙ってしまったことが忘れられない。
遠い昔の思い出になった。今書道塾はなくなり、お孫さんの家が建つ。塾に正面にあった蘇鉄だけが小さくなって残っている。でも、あの蘇鉄を道から眺めるたび、清水先生のたばこ臭いからだと怒鳴り声に身がすくむ思いがする。そして何より、あの俊捷な字体がよみがえる。僕は、あの字のような生き方をしているだろうか、と思う。
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森平鋭について(6) 終わりに〜問われなければならないもの〜

2019/02/06 13:17
終わりに−問われなければならないもの−
 こうして1931(昭和6)年3月31日に森平は生家で家人の目を盗んで縊死を果たしている。問題が深刻なだけに今までの記述の浅はかさ、結論を導き出す際の軽薄さを感じないわけにはいかない。しかし、如何に浅はかな推論ではあっても、敢えて言うとするならば、やはり森平にとってこのような結果で生を終えることはあってはならなかったと考えたい。どんなに苦痛に満ちた生であっても、やはり死への「逃避」(傲慢さを承知した上で敢えてこう表現しよう))という形で終わってはいけなかったと考える。そう考えなければ後世の他者は森平の青年期から何ら積極的なものをくみ取ることが出来なくなってしまうのではないか。
 「未来は青年のものである」のスローガンのもとに身を投じていった結果がなぜこうならねばならなかったのだろうか。その運動の観念性とでも名付けるべき性質の結果招来した荒廃の中から未来への成長の糧となるべき何者かが拾い出されなければならない。どこかにこの死への道程を生への成長の糧に転換しうる契機があり得なかったのだろうか。
 敢えて言うなら、青年後期の青春の崩壊の中に多くのものがみなこのような荒廃の相を自己のうちに見いだすのだ。
 そして、その荒廃に直面したとき、対峙しつつ自己の成長の契機を探り出そうとする位置にとどまり続ける人間もいようし、いったん身を翻して別の世界に自己の生を見いだす人間もいよう。それは、各人各様の仕方であるが、解決のつかない問題を自己に問うことに変わりはない。そして、早急な解決を断念し、当面そのような荒廃に耐えていくことこそが、成熟への道を見いだす契機となるはずである。(おそらくは、成熟の境地を手に入れることよりもそれを求め続ける過程にこそ青年期以後の生の意味があるのだろう)(*注18)
 今仮に、運動史を問う意義が前者−過去の運動に対峙し続ける立場−にあるとすれば、やはり森平個人の性格的問題よりも、組織のあり方に目を向ける視角が必要となるはずである。組織は常に問われ続けなければならない。なぜならば、その持続的な反問こそが、明日の組織を今日の組織よりもより増しなものとしていく力の源泉となるからである。
 もし仮に上京したばかりでしかも静養が必要としていた森平に、あのような激務が命ぜられていなかったとしたならば、一歩譲ってたとえそのような激務であったとしても、もし森平一人の一方的献身というような内容のものでなかったとしたならば、さらに言うならば、その活動において同志間の日常的な接触を通して森平個人の困難を同志全体の課題とすることが出来ていたならば、その後の経過はもう少し違ったものになっていたのではないだろうか。明暗を分ける決定的な時期を探るとすれば、やはり上京後一年間の非合法活動期に求めうると断言しても過言ではないだろう。それ以前の静岡時代における全面的信頼という同志間結合の様式とは別に、議論を通して異なる個人を統一する仕方で同志を結びつける結合様式が取って代わる可能性がそこになければならなかった。森平にとっては未経験のこのような同志間結合の様式がもし森平の周囲に制度として確立されていたならば、前述したような幼さや弱さを森平が克服し成長していくことが出来ていたかも知れない。静岡時代の同志(それは小学校時代からの朋党だった)とは違った種類の新しい同志を中央の活動を通して多数見いだすことが出来ていれば、それらの交わりを媒介することで彼自身の負の側面を徐々に改めていくことが出来たはずである。そして検挙後の思想的な動揺も、もしかしたら思想的崩壊−森平の崩壊というコースをたどらずに、より次元の高い森平自身の思想を形成させる契機となり得たのではないだろうか。
 当時の組織にはそのような何かが欠けていた。これが当時の非合法活動全体に言えることなのかどうかはわからないが、少なくとも他ならぬ森平の周辺には欠けていたように思
われてならないのである。(*注18)おそらく安定した成熟の境地というものは存在し得ないのではないか。それが、「近代哲学の問題の核心である、人間生活における衝動と規範の二律背反」(F・ボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』みすず書房1965・9)というものであろう。むろん宗派的(セクト的)な、言い換えれば中世的な精神世界に自らを律して閉じ込めることも一つの解決の方法ではあるけれども、近代社会に一般的な時代精神たり得ない。
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森平鋭について(5) U問題の所在 2 保釈後の自殺

2019/02/06 10:56
2.保釈後の自殺
 森平は、30年になって健康の悪化を理由に保釈を許された。保釈後島田の生家に戻った彼は、家人の厳しい監視の下で交友関係を制限され、一種の軟禁状態におかれた。そして、その一年後、生家で自殺を遂げている。
 本来自殺という一種の極限状況に置ける人間の心理には他人は究極的に立ち入ることは出来ず、周囲からあれこれ推測することしか出来ない。吉見氏は、その一つのカギになるのではないかと言って、森平の思想的動揺をあげられたのである。未決期間中、彼は水野成夫を中心とする「労働者派」に近づいていったと言われるのがそれである。教大とも一心同体とも形容される間柄だった神間は、この時すでに「労働者派」に属し、新たな思想的展望のもとに精力的に活動を展開していた。
 吉見氏は、これは私の想像ですがと断った上で次のような意味の説明をされた。
(1)神間と森平の関係は、神間が森平より年下であるにもか変わらず、端から見て森平が神間を頼りにするような傾向があった。
(2)森平は表面的には有能、誠実な青年として評価されるが、もう一つ突っ込んだ言い方をすれば、気の弱い、ものにこだわる一面を持っていた。それに反して神間には森平にない強い個性と指導性があった。
(3)したがって、森平は神間が労働者派に移っていったことに、ある意味で裏切られたとでも言うような気持ちを抱いたのではないか。
(4)森平が労働者派に近づいていったこととこの「裏切られた」という気持ちを想定することで、自殺の間接的な背景を理解しうるのではないか。
 吉見氏が言おうとしたことを正確に要約し得たという自信はないが、ここではこのよう役の上に一応立ってみて、問題を考えてみたい。(というよりもむしろ、吉見氏が何を言おうとしたのか考えてみるというほうが正確だろう)
 おそらく森平自身の性格的問題として、森平にない強い個性と自主性を持った神間に従属しきってしまうような幼さ、弱さがあったのだろう。その神間が、積極的転向を果たし精力的に活動を展開していったとき、森平はそれに引きずられつつしかも新たな展望を自分の心の確信にまで高めることが出来なかったために「裏切られた」というような感覚を抱いたのではなかろうか。
 T−1で述べたように、神間への信頼が森平にとっては労働青年連盟以後培ってきた思想への信頼でもあり、活動の源泉ともなっていたのではないだろうか。それは思想集団としての性格が色濃かった島田の青年活動家たち(本論p117〜119参照)の同志的結合の質を示している。そのような質の結合の仕方は中央の非合法活動を耐え抜くには弱すぎたとして、森平の性格的問題に解答を見いだすことも出来よう。
 神間のような積極的な転向の仕方は思想が内在化され、外部的な権威から個人の内面的精神が完全に自由になっていなければ出来ることではない。そのような自由とは哲学上の述語を用いて言い換えれば、絶対的な自我の孤独に耐えることである。
 森平にとっては、そのような自我の孤独を、神間がいわば自分をおいて先に行ってしまうような感覚で味わうことになったのだろう。これはおそらくU−1で述べたような個の自立を獲得しうるかしえないかの、森平にとっての最後の分岐点になった。中央の非合法活動下でそのような契機を喪失していた森平にとって、この最後の契機はもはや遅すぎたと言えよう。死刑、或いはそうでなくても相当な重刑が当然予想されている状態で、苦痛に満ちた成長の過程を敢えて進もうとする勇気が生まれ得るだろうか。(森平の判決に対する精神的負担の大きさは当然のことながら吉見氏はその背景に指摘している)しかも彼の肉体は昔日の面影を失った病魔に冒された身体だった。精神的にも肉体的にもぼろぼろになった彼はこの最後の契機の前でずるずると対抗していったのではないか。家人によって終日監視されている状態ではかつての親友も彼に近づくことが出来なかった。神間氏の回想によると、この頃森平は時々神間の下へふらふらとやってきては終日何をいうでもなくただ家の中をうろうろ歩き回るということもあったという。死の一週間ほど前に東京からかつての組織の同志が森平を訪ね、運動への復帰をかなり激しい口調で勧めたこともあったと言われている(*注17)これが直接的な引き金になったかどうかはわからないが、この段階でおそらく誰も森平を引き留めることが出
来なくなっていたのだろう。 (*注17)吉見氏・聞き取り   つづく
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芽キャベツ作ってます めぐみ農場 megmi farm

2019/01/29 20:54
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退職して、芽キャベツ農家になりました。ただいま元気に出荷中です。最高級のものがたくさん取れます。注文はメールでどうぞ。 めぐみ農場/Megmi Farm (野島恭一)
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森平鋭について(W)U 問題の所在

2019/01/29 20:32
U 問題の所在
1.思想的動揺の背景
上京してからの森平の周囲には神間・吉見以外に心を許せるような友人はいなかったと言われる。(*注14)上京して間もないということもあるが、何よりもいきなり背負わされた非合法活動の任務の質が気を許したつきあいを森平に許すようなものではなかった。三・一五以後は神間・吉見が検挙され、森平は親しい友人なしで前述したようなユース再建の激務に携わらなければならなかったのである。
 神間は森平を評して「それはもう真面目、くそまじめな性格でした」と語っている。吉見は「しかしまた気の弱い、といったらなんですが、物事を思い詰めて考えすぎるところがありました。」とも言っている。おそらく、森平のそういう性格が、運動の上での有能な組織力・行動力につながっていた反面、中央の非合法活動の中で健康を害してまで一途に活動に専念するという、いわば組織に振り回される結果に陥らせたのではないだろうか。嫌な言葉だが「うまく立ち回れない」傾向が確かにあった。また注7とも関連するが、党の上部では森平を党員として扱いレポ活動を任せているにもかかわらず、森平自身は党員の候補者として試用期間中ではないかと考えていたという調書の内容がもし正しいとすれば、森平のいわば献身的とさえ言える活動姿勢に拍車をかけていたはずである。
 それにしてもなぜ党の上部は森平一人の献身的な活動に任せたままにしたのだろうか。森平のおかれた状態は党上部の命令に対する一方的服従だった。仮に森平に入党の自覚が本当になかったとすれば、命令に対する献身の度合いは入党の期待によって一層増すだろう。また、そうでないとしても、当時の党活動には同志間の結合のしかたにおいて何かが欠けていたのではないだろうか。党員相互の日常的接触の中で、議論を通じて異なる人間を統一していくという結合の仕方があまり見いだせないのである。異なる意見や主張がぶつかり合い、その対決を通じて統一を見いだすことが出来たとき、初めて個人個人の党員相互の間に一定の信頼感が生まれ、統一された意思に対する義務履行の意識が生じるのではないか。いわば「組織された不信」(*注15)という手続きを続けることによって組織への信頼が生まれるはずである。それがまた個人の党員の挫折や困難を個人的なものとしてなおざりにするのではなく、あるときは励まし、あるときは批判するという形を通して相互の課題となり、克服すべき共通の問題として組織自らに課すことを可能とする。このような形式を組織が持つことが出来れば、党組織そのものの強さとなっているはずである。非合法化だからこそ、党員相互の間や、上部組織と下部組織の間にそのような相互の意思伝達が必要とされるのではないか。
 森平のおかれた状態、具体的にいえばガタガタになった身体を冒してのレポ活動は、森平の個人的な問題として無視されていいような類いの問題ではない。仮に細胞に彼が所属していたのなら、細胞会議の席上で即座に取り上げられなければいけない。このような例は森平一人ではなく30年以後の非合法活動の一定の高揚期にはずっと多かったのではないだろうか。
 森平からみれば、彼の静岡時代の活動を通して彼自身を支えてきた気を許せるような親友が欠けていたと言うことになるが、静岡時代とは規模が違う中央の活動において、そのような朋党的結合を要求することは土台無理な話ではないだろうか。しかし、そのような青年前期にありがちな全面的信頼という同志の結合とは別種の、今述べたような同志間結合のあり方がなければならなかった。
 人の生き方という点から言い直せば、挫折を通して成長していくということを発見することが、森平にとって今までとは別の同志間結合のあり方を持つことだったと言えよう。青年前期の朋党的な信頼関係とは、未分化なままに人と人とが結びついているに過ぎない。そこを抜け出して、個の自立を獲得するまでのの間には、一種の苦痛に満ちた飛躍が必要なのであるが、森平の非合法活動には、その飛躍の契機となるべきものが欠けていたように思える。
 表面的にいえば、神間のような小学校時代からの友人たちという種類の同志から、それとはまたひと味違った同志を獲得するということになる。
 しかし、繰り返して言うが、森平の活動の周囲にはそのような別種の同志間結合の様式、個の自立への飛躍の契機、新しい友人を見いだすきっかけが与えられていただろうか。もし与えられていたとしたら、その後の彼の人生はもう少し別の経過をたどっていたのではないだろうか。
有能な活動家、優秀分子として上部の目に映るものであっても、成長するということを発見できなければ、その帰結は目に見えている。10月の検挙後、森平の予審調書には次のような問答がみられる。(*注16)
「三十八問・被告ハ、今後モ、日本共産党ヤ日本共産主義青年同盟ニ関係スルツモリカ
答・私ハ従来ハ私ノ理解スル程度ニオイテ日本共産党オヨビ共産主義青年同盟ノ主義・主張ヲ是認シテイタノデアリマスガ、コノタビノ検挙ニヨリ、余リニソノ運動ニ従事スルモノノ犠牲ノ大ナルヲ見、カクテハ到底、無産者解放ヲ実現スルコトハ出来ナイト思イマスシ、又私ハソノ運動中無産青年同盟ヨリ僅カニ月二十円貰ッタリ又同志ノ学生ノ世話デ生活シテイタヨウナ状態デ、今後コノ運動ニ従事シテモ到底生活出来ナイト考エマス。
 夫ニ、親タチニ多大ノ心配ヲカケルコトニナルノデ、今後ハコノ運動ニハ断ジテタズサワラナイカンガエデアリマス。
三十九問・現在日本共産党・日本共産主義青年同盟ノ主張ヲヨイトオモッテイルカ
答・多数ノ検挙サレタノヲ見テ、ソノ主義、主張ノ正シイノカ誤ッテオルカワカラナクナッテシマイマシタ。
森平のこの言葉が本心から出たものか、偽装によるものかは断定し得ないが、その後の経緯から見て本当の心境に近いと考えて良いのではないか。今仮にそう仮定しよう。これを単に屈服者の転向としてしまって良いのだろうか。権力に屈服して陣営を去るということはいわば消極的な転向である。これは決して決定的な段階ではない。人間の方から組織を見捨てることはあり得ても、組織の方から人間を見捨てることはあってはならないはずである。この屈服を成長の糧と転化しうるような組織の力がそこになければならなかった。では、逆に偽装と仮定した場合はどうなるだろうか。これも当時の活動家にはしばしばありうることである。もし偽装だとするなら、問題は森平の次の時期・・・自殺するまでの時期に下って論じなければならないことになる。なぜなら、偽装転向するたくましさは自殺と
は背反の関係にあるからである。(*注14)吉見氏・聞き取り
(*注15)レーニン『一歩前進二歩後退』および松沢弘陽『日本社会主義の思想』(1973)
(*注16)前掲資料(注1) (つづく)
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高群逸枝と野上弥生子

2019/01/26 07:16
読書ノート 高群逸枝「火の国の女の日記」〜高群逸枝と野上弥生子〜  2019.0122野島恭一

石牟礼道子の自伝を読んで、彼女の人生の大きな転機になったのが、石牟礼と高群夫妻との出会いに合ったんだろうと考え、今まで、歴史上の人名でしかなかった高群逸枝の日記を読むことになった。
石牟礼と高群は、パーソナリティもにているのだろう。教員から出発した生い立ちもにている。高群・橋本憲三夫妻のジェンダーレスなあり方が、石牟礼の、それまでの生き方を、より本質的なものに生まれ変わらせたのだろう。
高群の著作を読み、高群の死の直後の橋本憲三に接することで、石牟礼は自分の夫や子供との関係性も含めて、突き抜けられたのではないか。橋本憲三は、石牟礼の夫、石牟礼弘や道生氏に通じる。論理が飛躍するかも知れないが、九州には、古事記・日本書紀の時代から女性首長が多い。それを立てる男性がいる。どこかで、既成のジェンダー秩序を突き抜ける女性がいて、それを認めて変わる男性がいるんだろう。
今回、一番考えたのは、そのことではなく、1920〜30年代の高群や平塚雷鳥、野上弥生子たちの生き方のこと。
1900年代初めに、知識人女性としてスタートした彼女たち。平塚雷鳥は、三四郎に出てくる女性と言うことくらいしかよく知らないが、野上弥生子の日記に出てくる範囲では知っている。ここでは、野上弥生子日記と高群逸枝日記を比較して考えことをメモする。今後、その他の記録も読んでみたい。とりあえず、今考えていること。
1.この時期の「知識人」は、読み書きが出来る高等教育を受けた比較少数人間が、活字出版ができる東京に集まり、他方にそれ以外の、大多数の地方大衆が存在するという、ものすごい文化格差という状況の産物。この格差のおかげで、あまり考えなくても文が書ければ、収入が得られもてはやされサロンを形成できた。
2.したがって、頭脳は自由に見えて、その各個人の足元は封建的な価値観や行動様式にどっぷりつかっている。三四郎のみね子のように、男性も女性も自由に見えて、結婚によって一気にその矛盾が表出する。
3.野上も高群も、結婚によってジェンダー秩序の桎梏に苦しむことになった。高群の夫橋本は、家庭生活を顧みず彼女に暴力をふるう。高群は「愛」「恋愛」至上の性向で、男の横暴を受け入れようとする。野上は、それとは対照的に、自己の向上のために野上豊一郎と結婚し、恋愛感情はむしろその後、中勘助に対して芽生える。そして、夫野上によって弥生子は家庭内に封印される。高群と野上は、ともの男性支配のジェンダー秩序の封じ込められている。
4.それは、当時のほとんどの女性知識人のあり方だったろう。橋本は高群に暴力をふるい、高群はそれを愛と思い込む。野上豊一郎は弥生子を家庭内に閉じ込め外出も許可しない。彼女の作家活動はそのゆがんだ産物。陰と陽のⅮXの典型だろう。高村智恵子もおそらく何らかの性=人格支配が光太郎からあったに違いない。千恵子の場合は精神を病むという形で現れる。
5.高群は、橋本の支配を転覆させ、逆に彼女に橋本がかしづく形になる。そして、橋本の身辺支援を得て「森の家」に隠棲することでその後の彼女の研究生活が始まりたくさんの女性史研究を生み出していった。野上は「女流作家」として名を挙げていく。ちなみに、野上弥生子の豊一郎からの支配の時期の日記は震災で焼失していて、公になっていない。日記として公開されているのは、作家デビューを果たして以後のこと。野上弥生子の本質はむしろ公開されていないこの時期にある。
6.高群の日記で1931年から37年ごろまでの内容はほとんど触れられていない。それ以前の1929年まで、アナーキズム系女性運動「婦人戦線」の編集者だった記録は、日記の中で大変貴重な部分。彼女は、この雑誌の行き詰まりとともに社会運動から姿を消し、「森の家」に今までの在り方を全面転換した橋本とともにに隠棲する。野上弥生子は、作家デビューを果たした後、逆に社会活動に出始めようとする。特に1931年満州事変前後で彼女は「対支非干渉運動」に積極的にかかわり、精神的にも高揚する。ところが1931年末、彼女は特高のかんたんな取り調べを受け、その後一挙に活動から手を引き、作家活動に戻る。「ハンブルでプルーデントな自分」(謙虚で質素な自分)に戻ると日記に書いている。以後彼女は社会活動から必ず一線を引く。
7.この2人の、社会運動からの離脱は、共通点はないか。野上弥生子を転向文学者としてくくる人がいるがそれは全く違う。彼女は、自分の本質に立ち返っただけだ。高群は、何らかのきっかけで、内向的な女性史研究にのめりこみ、社会との摩擦は起こさない。いずれにしても、満州事変から日中戦争全面化に至る30年代に、自分の立場の安全を優先し、社会的発言をしない。どちらも、社会に対して個人で向き合わない。戦争とファシズムの第一歩で、戦う前に安全領域に入り動こうとしない。そして、その防壁は夫だ。ジェンダー秩序に守られることで生息している。野上の夫豊一郎は法政大総長という要職、社会的地位があった。その保身は大切だったはずだ。高群の夫橋本も、この大転換の時期に何らかの保身があったはずだ。
8.ただ、違いは、高群がどちらかというと比較積極的に時流に合った発言をし、「大日本帝国の女性」としての発言をし、野上は軽井沢で孤高な生活をし、時流に迎合しなかったこと。野上の場合、3人の子供の教育に集中している。高群は、愛児を死産した後、子供はいない。純粋な研究生活、夫との2人だけの生活に没入している。野上は、夫との関係はほとんど触れず、母性至上主義的な発言を隠そうとしない。3人の子を東大に進学させる成功した母となった代わりに、社会的発言は一線を画す。親友宮本百合子のことを、「子供がいれば違ったかもしれない」と言っているのは興味深い。平塚ら、女性社会運動にかかわったかつての友人を、生活を大切にしていないと批判し、完全に一線を画している。
9.高群は、戦後その著作と、橋本とのジェンダーレスな、神話化された隠棲生活の中で、知識人の偶像となっていく。その末年に、石牟礼道子が登場し、石牟礼はそこで初めて新しい生き方を目の当たりにし、故郷に帰って水俣を原点に据えた著作―社会活動に入っていく。高群の知的に没入した魂が、石牟礼という土を得て、芽を吹き、いき始めたということだろう。
10.野上はどうだろう。弥生子の結婚は打算だった。彼女は、その打算によって得られた安息の場所を絶対に侵さず、それを妨げない範囲で文学と知的世界に飛翔していく。そして、足元の実生活では、子供を教育にエゴむき出しでかかわる。自分の内面の本当の感情は、封印されている分より持続する。ずっと持ち続けた、中勘助への思慕。晩年の田辺元との恋愛。その、自分への欺瞞は、意外な形でのちの世に現れる。
11.彼女が教育ババとして、たくさんの孫の中で最も期待したのが長谷川三千子。現日本会議幹部、超保守派哲学者。ジェンダーフリー攻撃の最右翼。長谷川の論理の立て方と、野上弥生子と、全く同じ部分が一つある。それは、「男は信用できない。男の封建制は変わらない。期待できない」という点である。野上弥生子の孫になんで長谷川三千子が出てきたのか、と最初は疑問に思った。でも、野上日記を読み通すうち、なるほど、と思った。日本の封建的男女秩序に絶望し、受け入れ、自分が支配されるとこうなるのだろう。
12.高群は、そうではなかったのだろう。彼女に子供が育たなかったというのも大きい様に思う。ただ、だからこそ、石牟礼道子と言う子供を得たともいえるのではないか。
13.このほかに、この「火の国の女の日記」に史料価値がある部分として@明治末年の熊本の民衆生活、とくにサンカや、放浪する人々の記述が出てくること。A関東大震災で朝鮮人暴動のデマがどう広がったか、その実情はどうかの文が生々しくあること。Bアナーキスト系婦人運動の記録、その中に住井すゑの名前を見出すことができる。アナ系運動は、ボルとの多数派争に敗れて退潮する。その前の貴重な記録だろう。
*高群逸枝「火の国の女の日記」は、城北図書館閉架に。野上弥生子日記は南部図書館開架にある。
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森平鋭について(3)

2019/01/23 05:04
3.共青・共産党の活動
 全日本無産青年同盟中央常駐として上京した森平は上京直後の27年9月ユース中央部員になっている。これも神間との関係上、神間に請われたためだった。神間はこれに先立つ7月にユース中央のキャップになっている。(*4)
しかたっておそらく神間が森平に上京を促した背景には、単に全日無青中央の人手不足という理由だけでなくユースの活動上の必要という理由も当初からあったものと思われる。上京していきなり森平は青年運動の合法・非合法両面の活動に従事することになった。森平が加入したユース中央部は片山睿・神間健寿・森平の三名で構成されていた。
 森平は上京直前の6月頃から健康を害していたが、上京後の不慣れな土地での不規則な生活と活動の激務は、すでに悪化しはじめていた彼の健康を休息にむしばんでいだ。上京間もない9月末に肋膜炎にかかり、さらに腸チフスを併発して11月まで入院生活を送らなければならなかったのである。かつては軍隊上がりで屈強でならした彼も、退院後はガタガタになっていたらしい。見るも無惨なやつれようだったという。(*5)これ以後彼の死までの間ずっと、病気が常につきまとっている。
 11月の退院後、静養のためユースの仕事は中断せざるを得なかった。ところが、翌年11月には共産党のレポーター(連絡係)として党活動に奔走している。加えて全日無青中央委員の仕事も山積していた。27年末から28年までの時期は、周知の通り27テーゼが具体化され党活動が労働者出身党員の大量参加に四手活発化される時期であり、また2月の初の普通選挙による総選挙を控えて「赤旗」(せっき)が送還され党が公然化する時期に当たる。理論的にも活動のうえでも急転回した時期であり、活動家にとっては「てんやわんや」の日々が続いていた。本来静養を続けなければならない森平が無理にもレポ活動に引っ張り出された背景にはこの多忙な時期の人手不足という理由があったのである。そして27テーゼによる福本イズムの清算主義的な方針転換で労働者出身党員が重視されたため、学歴のない森平に「レポ」という重要な任務が任されることになったのであろう。健康な頃の森平は小柄で敏捷、屈強な青年だったと言われており、敏捷さはレポ活動に必須な条件だった。(ただし、入党については注7のように若干の問題がある。*7)しかし、実際のところは退院直後の彼の身体は静養を必要としており、ユースの活動さえ慎まなければならなかったのである。にもかかわらず党の活動、それも非合法活動のなかでももっとも困難な部門に入るレポ活動を命ぜられるということは、客観的情勢を考慮してもなお不適当と言わなければならないだろう。
 28年3月15日の弾圧では森平はいったん検束されたものの17日には釈放された。おそらく全日無青本部関係で検束されたものはユース関係者と当局がにらんだもののみ拘留され、残りはすぐ釈放されたのだろう。(*8)森平は11月以後党関係のレポ活動には従事していたがユース活動は停止していた。これが森平の釈放につながったものと思われる。
しかし、森平にとってこの釈放が幸いだったとは即断できない。なぜならば彼は三・一五弾圧によって壊滅したユースと、4月10日の解散命令によって解体した全日無青の再建活動に奔走しなければならなかった
 ユースは三・一五直前になってようやく中央と地方委員会の組織関係を明確にし、関東地方委員会では「青年戦士」、関西地方委員会では「青年衛兵」」の機関誌を発行するまでに至っていた。(*9)森平は28年5月以降、同年10月10日に逮捕されるまでの間、身体の不調を押してユースの再建活動を精力的に展開している。5月(*10)から7月までの間、片山睿・阿部研一・大山岩雄・森平の4名でユース関東地方委員会を構成し、森平は同委員会の政治部長となっている。また担当地区は最も重要な南葛京浜地区だった。主な活動内容は機関誌「青年戦士」の復刊、規約制定・国際救援週間運動・社会民衆青年同盟創立促進・レフト組織(*11)の結成等であった。7月下旬以後は阿部研一にかわって伊藤正之助が関東地方委員会に加わっている。伊藤は共産党がユースに派遣した党とユースのパイプ役であり、これによって三・一五以後途絶えていた党との連絡が回復した。森平は組織部長に転じ、委員長格にこの伊藤がおさまることになった。この伊藤の指導の下でレフトは解体されユースに吸収されている。(*12)
 この半年の激務の間、森平は逮捕を逃れるために住所を転々と変えなければならなかった。学生シンパの下宿が彼が泊まり歩いた先だったのである。おそらく、彼の身体はこの不規則な生活のなかでいつ倒れても状態にあったと想像される。最後の二ヶ月ほどの間は小石川の陸軍砲兵工廠筆生だった箕浦義文の下宿に同宿していたのだが、この間、森平は陸軍工廠の部内文書を箕浦に頼んで持ち出してもらい、これを党の上部に渡したことがあった。(*13)運の悪いことに、このことが当局側に発覚し、軍機保護法違反事件として追及されることになった。つまり共青活動が問われる治安維持法違反の容疑に軍機保護法違反の件が加えられることになった。このようないわゆる併合罪のケースは三・一五、四・一六統一公判前被告を通して他に例がなく、森平ただ一人であった。しかも森平に適用される治維法は、25年の最高刑10年の治維法ではなく、28年6月に緊急勅令を持って公布された最高刑死刑の治維法であった。三・一五で逮捕された森平の同僚には旧治維法が適用されるが、28年10月に逮捕された森平には新治維法、いわゆる死刑法が適用されることになったのである。森平とともに軍機保護法違反を問われた箕浦は、後の判決で党員でも共青員でもなかったのにかかわらず、中堅幹部クラスの懲役6年の判決が出ている。森平は自殺によって公訴棄却となったものの、仮に生きていたとすれば、卑近な言葉で言えば見せしめのために死刑の判決が降りる可能性があった。それはおそらく森平も感じていたであろう。
 上京してわずか1年の非合法活動の結果得られたものはぼろぼろになったからだと、死
刑判決すら予期される絶望感だった。(*注4)それまでユース中央を構成した雨森卓三郎と片山久との間に感情的な対立があり、三田村四朗の調停で二人をユース中央から外し、神間一人に「思い切りやれるだけやって見ろ」と言うことで任せられたという(神間氏聞き取り)
(*注5)吉見・神間氏聞き取り
(*注6)吉見氏聞き取り
(*注7)予審終結決定書(「栗原佑他27名治安維持法違反被告事件予審終結決定書」『現代史資料』16)によれば(これは判事が担当被告や他の被告の調書をもとに作成するもの)森平は上京直後の27年9月に神間の勧誘でユースに加入し、よく28年2月頃内垣安造の勧誘によって共産党に入党したことになっている。終結決定書の前の段階で作成される調書(前掲書・注1)では、森平はユースへの加入は認めているものの共産党への入党は終始否定していた。従って予審判事はユースについては森平調書を、共産党については内垣調書を採用しているものと思われる。
 ユースの方は問題ないとしても、共産党には入党していたのだろうか。もしそうだとしたらそれは終結決定書の通りなのだろうか。これは、Uの「問題の所在」とも関係するので考えてみよう。問題の部分を森平の調書から引用すれば次の通りである。
(第五回訊問調書) 
「一問・被告ハ日本共産党ニ入党シタカ
答・イーエ、私ハ日本共産党ノ「レポーター」ニハナリマシタガ、党員ニナルヨウ勧誘サレタコトモナク、自分カラ加入ノ申シ出ヲシタコトモアリマセヌ。シタガッテ日本共産党ニハ加入シテオラヌツモリデアリマス
二問・被告ガ日本共産党ノレポーターニナッタ事情ハ
答・私ガ日本共産党ノ「レポーター」ニナッタノハ、昭和三年一月下旬頃デ、ソノコロノアル日
横山某
ナルモノガ、当時、私ノイタ小石川区諏訪町ノ全日本無産青年同盟本部ニ私ヲ尋ネテ参リ、ソノ際、私二日本共産党ノ「レポーター」タルヨウニモウシタノデ、私モソレヲ承諾シ、事後ソノ党ノ「レポーター」トシテ活動シタ次第デス。
(中略)
四問・植山トハ
内垣安造
ノコトデハナイカ
答・植山ガ内垣安造ナルコトハ、警察カ検事局ニオイテ初メテ知リマシタ
五問・被告ハ右ノ以来ヲ受ケタトキ、植山を日本共産党員トオモッタカ
答・ソノヨウニ思ヒマシタ
六問・植山ハドンナ風ニイッテ「レポーター」タルコトヲ依頼シタノカ
答・日本共産党ノ「レポーター」トシテ目下適当ナ人物ガナクテ困ッツテオリ、党ノ上部ニオイテハ君二「レポーター」ニナッテモラフコトニ決定サレタユエ、是非君モ「レポーター」トシテ活動シテモライタイトモウシタノデアリマシタ。
七問・ソノ際、植山ハ被告ニ日本共産党に加入スルヨウ申シタノデハナイカ
答・イーエ、サフイフコトハモウシマセヌ
八問・日本共産党ノ目的等ニツキ何カイワナカッタカ
九問・ソレデハ当時被告ハ日本共産党ノ存在スルコト、ソノ目的、組織等ヲ既ニ知ッテイタノカ
この後第15問まで森平の共産党の知識について予審判事の質問が続く。森平は雑誌「マルクス主義」によって党の存在を想像してはいたが、はっきり知ったのはこのレポ活動以来の時だと断った上で、そのころの党の綱領、スローガンの知識について答えている。判事の質問のしかたは入党の予見にたった誘導訊問である。そして、
第16問・然ラバ日本共産党ガ私有財産制ヲ否認シ、労働者独裁政治ノ樹立ヲ目的トスルモノデアルコトヲ知ッテ植山ノ依頼ニヨリ、ソノ党ノレポータータルコトヲ承諾シタ訳カ
答・左様デス
この後、レポ活動の具体的内容が述べられる。一月下旬から三月十日までの間、毎日のように内垣から風呂敷包みを受け取って三名の党員に包みを一つづつ渡し、その他に労農党本部や産業労働調査所、評議会本部、東京合同労組本部にも何回となく連絡を届けに走り回っている。風呂敷包みや連絡文の封書の中身は森平にはなんであるかわからなかったという。その後三月十日から四月上旬までの間、村尾薩男の「レポ」として風呂敷包みや「赤旗」」を他の党員に渡していた。そして再び
三十三問・ソノ間、日本共産党カラ機関紙「赤旗」ソノ他ノ文書ノ配布ヲ受ケタコトガナイカ
答・アリマセヌ
三十四問・党員ニスルトイウ通告二接シタコトハナイカ
答・アリマセヌ
三十五問・シカシ、被告ハ日本共産党員タル意識ノ下ニ行動シテイタノデハナイカ
答・イーエ、党員ノ候補者トシテ試験中デハナイカト思ッテオリマシタ
三十六問・同年ニ・三月頃、荒川ノ堤防ニオイテ日本共産党ノ会合ガアリ被告ニモ出席スルヨウ通知ガアッタノデハナイカ。
答・同年二月下旬カ三月頃デアリマシタ
岡本カラ荒川ノ堤防デ会合ガアルカラ出席セヨトイワレタコトガアリマシタガ、私ハ他二用事ガアリ出席デキマセンデシタ。シタガッテソノ会合ハ何ノ会合デアッタカ如何ナルコトヲ協議シタノカワカリマセンデシタ。
三十七問・ソレカラミレバ被告モ日本共産党員トシテトリアツカワレテイタヨウニオモワレルガ如何
答・イーエ、ケッシテ党員ニナッテイタノデハアリマセン
(第8回訊問調書)
十五問・被告ハ実際ハ日本共産党ニ加入シテイタノデハナイカ
答・私トシテハ加入シタ覚エハアリマセン
十六問・昭和三年一・二月頃、
内垣安造
ノ勧誘ニヨリ、入党シテイタノデハナイカ
答・イーエ、内垣ハモチロン、何人カラモ加入ヲ勧メラレタコトハアリマセン
十七問・内垣ハ被告ヲ加入セシメタトノベテイルガ如何
答・或イハ内垣ガ入党ノ手続キヲトッタカモシレマセンガ、実際、私ニは何ラノ話モアリマセンデシタ。
十八問・被告ハ旭ラバー工場ノ細胞ニ所属シテイタノデハナイカ。
答・サフイフコトハアリマセン
モシ、私ガ党員トシテ同工場細胞デアッタトスレバ多少記憶ガアルハズデスガ更ニソンナ記憶ハアリマセン」
吉見氏によれば「レポ」は重要な任務で、党員でなければ任せられない類いの任務だったという。したがって、いきなり「レポ」を森平に任せるはずがなくそれ以前の27年頃には入党していたのではないかとの疑問を出している。そしてその勧誘者は神間ではないかとも言われた。この点を神間氏にただしたところ、おそらく党員だったことは間違いないが、自分が勧誘した記憶はないとのことである。
神間はこの頃森平まで党活動に取られて青年運動が出来ないとぼやいていた(吉見氏)といわれ、おそらく神間は森平を勧誘したのではないと思われる。とすると、もし判事の嫌疑通り、内垣の勧誘で二月頃入党したのだとすれば、レポ活動の性質上森平の例はかなり変則的な入党の仕方だったと言うことになる。
 問題を整理してみよう。
@森平は内垣の勧誘により、二月頃党員となり、森平当人も承知の上でレポ活動に従事した。
A森平は内垣の勧誘を受けてレポ活動に従事したが、当人は入党手続きの完了知らなかったB森平は内垣の加入以前にすでに入党しており、その後二月になって内垣の指令でレポ活動に従事した。
このうち、@の場合は、いきなりレポ活動に従事させた変則性は
当時の活動家不足状況に説明が求められる。正し、この場合、森平の発言は虚偽ということになる。Aの場合は森平の発言は真であるが、(a)内垣の入党勧誘が虚偽であり、いきなり森平にレポ活動をまかせた、のかあるいは、(b)森平に何らかの事情で入党手続きの完了を知らせることが出来なかったと言う二つの場合に分けることが出来る。
更にBについては、レポ活動の性質という点から見れば納得がいくが、森平も内垣もともに偽証していることになり、しかも勧誘者が誰かわからないということになる。
 内垣安造は、三・一五の検挙後市ヶ谷刑務所八舎で同獄にいた横井亀夫氏によれば、共産党関東地方委員会書記局のメンバーで、保釈出獄後戦前に死亡したという。(横井亀夫私信による)。したがって、BおよびA−aについては確認が取れない。しかし、B、A−aについては、いくら調書が検事の作文であっても内垣と森平がともに偽証することは考えられないこと、党員でもないのにレポ活動を与えることは考えられないこと、と言う理由から外すことが出来よう。残る可能性は@とA−bである。
 おそらく森平が党員ないし勧誘を受けて党員候補の状態にあったことは間違いないと思われ、問題は森平自身に党員となったことが知らされていたか、いなかったかという点に集約されるだろう。つまり森平の側からいえばこの調書全体の真偽を問われる問題になることになる。もし、前者だとすれば㉗テーゼ導入直後の多忙な状態で入党していきなりレポ活動に走り回らなければならなかったと言うことになる。党員としての自覚や所属細胞の同志に支えられていたとしても大病直後の彼の身体にはあまりに酷な任務だったと言えよう。後者だとすれば、党活動の多忙な状態故に入党勧誘をなおざりにしたまま試用期間にレポという重大任務を与えざるを得なかったということになる。そして、おそらく三十六問に登場する荒川堤防上での会合が正式な入党勧誘の場所になるはずだったが、森平の都合によって出席せず、森平は党員候補としての意識のまま、激務に携わらなければならなかったということになる。
(*注8)吉見氏・聞き取り。なお、吉見氏自身も三・一五ではいったん検束されたもののすぐ釈放されタ。しかし4月10日の左翼三団体(労働農民党・全日無青・評議会)解散命令と同時に再検束され、以後長い勾留生活となる。
(*注9)齊藤勇『日本共産主義青年運動史』1980・8
(*注10)以下の共青再建活動の内容は前掲資料(注1)による。
(*注11)共産党系労働組合運動のレフトとは異なり、森平の提案によって作られた青年運動組織のことデアル。
(*注12)解体の理由は共青−無青という組織のうえに更にレフトが加わることは組織的な重複になると考えたことによる(前掲資料・注1)なお、森平が中心となって行った新青年同盟準備活動については本論では触れなかった。齊藤勇・前掲書(注9)に詳しい。
(*注13)前掲資料(注1)及び箕浦義文「」わが半生の歩み」『運動史研究』5(1980・2)
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