獅子が鼻と穂の国を歩く~めぐみ農場日誌№144 28 Feb.ー 7 Mar.2021

IMG_9513.JPG
2/28(日)早朝5時起きで朝食を作ったら白脇ファーマーズ、芽キャベツ12パック→共販5ケース→三方原ファーマーズ芽キャベツ5パック。帰宅後、シンク・風呂・トイレ掃除。これでやっと一息。ポカポカといい天気だったので、souとお出かけ。先週の湖西連峰大知波廃寺に続いて、山岳修験道の聖地、獅子が鼻公園へ。
 ここは、souが小さい頃行ったと思っていたけれど、もしかしたら、僕一人で行ったのかも知れない。souが覚えていないという。敷地の谷は、穏やかな、不思議な世界。今日のような、春が始まる日には、ぴったり。
 岩室廃寺跡は、礎石がごろごろしている。周辺の三重の塔跡、金堂跡も含めて大きな寺院だったことが分かる。見付の国分寺の瓦がでているので、古代から平安にかけてのつながりがある寺院。律令の国家仏教から山岳密教にうつる過程を示しているのだろう。この敷地の谷を北上すると虫生(むしう)から百古里(すがり)にでる、古代の山の道。百古里には、北遠の山際に残る坂上田村麻呂東征伝説、将軍杉がある。きっと全てつながっているのだろう。
 獅子が鼻を降りて、麓にある立派な寺院によってみた。龍寿山永安寺という。入り口に先日なくなった有馬朗人さんの立派な句碑があった。「梨の花 郵便局で日が暮れる」そうか、有馬さんは確か、浜松一中時代敷地に住んでいたことがあるはずだ。この獅子が鼻の谷の穏やかな風景と、有馬さんの青春時代が一気に結びついた。今週は有馬さんの句集を読んでみよう。
3/1(月)午前中芽キャベツ収穫4ケース。東京のお客様に5kg郵送。その後母の買い物に付き添ったら、となりの湖東高校からたくさんの親子が春風の中を出てきた。そうか、今日は卒業式なんだ。45年前からの自分の来し方を思わず振り返る。この切なさは何だろう。
 午後は、気分を変えて、一気にジャガイモの植え付け、125個。(キタアカリ100 メイクイーン25)。明日は雨なので、その後マルチを張ろう。
3/2(火)雨。午前中は帳簿整理。法人客への請求書を作っていて、消費税の扱いに悩んで調べ始めた。そういうことだったのか、と思う。免税事業者であること自体とてももやもやする。消費税を取らないでいられればそれでいいのだが、法人対象はそうはいかない。とすると、消費者が払った8%は、本来自分たちがきちんと納めなければ行けない。それをしっかり確認させる仕組みが適格請求書=インボイス。
 消費税=付加価値税なら、インボイスを徹底すべきなのだろう。小売り消費にだけ税をかける仕組みはできないのか、と考えていたら、やっぱりそういう仕組みはあったんだ。アメリカの売上税。小売り課税事業者を登録制にする。どちらにしても、今の日本の消費税はあまりに中途半端で、発展途上国の税制だな、と思う。
 教師だった頃、所得税に比べて消費税は単純に課税できると教えていた。大間違いだった。単純なのは税率を変更するときの行政と立法だけ=中央官僚と政治家だけ。つまり、統治機構側にとって都合がいいだけ。実務はとんでもなく大変。今なら、どう教えるだろう。鶴の授業で実務の大変さがシミュレーションできるはず。社会科の授業の視点が、現場=実務=民衆側でなく統治側目線に陥りやすいことがしみじみ分かる。
3/3(水)朝4ケース共販出荷。megを送った後、午前中4ケース収穫。途中、miから、年金支給開始に伴う扶養適格喪失で、急いで書類がほしいという連絡が入る。畑と仕事部屋の間を何度も往復する。その度に泥まみれの長靴とカッパを脱いで、うんざり。前もって気にして準備しておいたから良かったものの、配偶者が年金支給になって扶養を離れることは良くあるだろうに、学校事務がなぜこんなに混乱するのか、よく分からない。
 夜は合唱、浜響タンホイザー練習。みんな楽譜から目を離して指揮者を見なけりゃ。あれじゃ指揮者に失礼。
3/4(木)朝ファーマーズに芽キャベツ、タマネギを出荷。そのあと、4ケース梱包。ファーマーズの価格が安すぎてしかも売れ残る。貧困商法のようになってきた。おまけに共販も、今まで成長が遅かったのがここに来て一気に収穫が増え、JAで出荷制限をかけてきた。来週本当は毎回6ケース出荷したいと要望したのに、半分の3ケース。がっくり。こちらも読みが浅かったけれど、JA販促も読みが浅かったのだろう。販売を先方に増量要請すれば、何とかなると思うのだけど・・・
 午後は、畏友の技術の先生に来てもらって、昨年来故障している一輪管理機のエンジン修理。キャブレターを外し、オーバーホール。この作業自体は、自分も2回やったのだけれど、やっぱりプロのやり方は見ていて参考になる。外した部品の置き方、ツールの選び方、指先の動き。
 1時間半程作業して、再度エンジンをかけてみたら、スタータロープを二人で後退して何度も引いているうちに、バックファイアの音と煙が出たと同時にエンジンがかかった。ほんとに久しぶりに復活。あきらめないで良かった。エンジンの音がこんなに心地いいなんて。
3/5(金)早朝共販4ケースを出荷した後、ファーマーズに売れ残り回収と、めげずに次の出荷。megを送って帰宅したらすぐ次の収穫。大きすぎる玉が出てきた。出荷量を減らし、収穫が間に合わないからだ。残念だけど大きすぎるものは、ごめんねといいながら畑に捨てていく。
 午後は、雨が降り出したので、銀行回り。後見申し立てについて裁判所との日時打合せ。東京法務局からの再申請書類も届いたので、これで来週、予備面接。それまでに、フランスの制度を友人に聞いておこう。夜、遅く帰宅したmiから、共済組合の保険解除の手続きが手間取っていることを聞く。共催の保険証の脱退ができなければ、国保の申請もできない。今の被扶養者保険証は「使わないでくださいね」ということで、無保険になってしまった。何が「使わないでくださいね」だ。
 任意保険が切れた車の運転をしているのと同じこと。まして農業はけがが多いから、早く国保が使えないと本当に困る。年金が出て扶養を外れるだけなのに、なぜこんなに混乱しなければ行けないのか。年金の請求も、確定申告も、自分の方からは全て瑕疵なく迅速にやっているのに、共済組合と学校事務がおかしい。一体どういうことだろう。これでけがや病気になったら、自己負担の分はどうしてくれるのか。
 3/6(土)朝食を作った後、ファーマーズにタマネギ、芽キャベツを出荷。帰宅後ブロッコリーを初取り、サラダにしてみる。おいしい、これなら大丈夫、出荷できる。晴れてきたので、布団を干し、掃除を済ませ、明日の芽キャベツ3ケースを梱包。お昼前になったけれど、おにぎりを作って、souと一緒に週末のお出かけ。三河国分寺周辺へ。東名で豊川インターから三河国分寺→国分尼寺・天平の里資料館→財賀寺→豊川海軍工廠平和公園。午後の半日、とても実り多いフィールドワークになった。
 三河国分寺・国分尼寺は、遠江国分寺と姫街道でつながっている。畏友矢田さんも言っていたとおり、それぞれ直線の官道が寺院の前を通り、そこを歩く民衆が見上げるように巨大な七重の塔がたっていたはず。金堂・講堂よりも先に塔が建てられているという。帝国書院のイラスト原画でも、僕は塔を先に完成させて描いた。それが編集の段階で金堂が先に変わってしまっていた。やはり、自分が正しかった。それにしても、遺跡公園の復元保存の仕方が見事。平城宮址と同じような情熱を感じる。
 財賀寺は、島田の奥にある智満寺をよく似る。立地、急峻な参道、本堂のつくり。やっぱり頼朝の建立だった。街道筋を通る平氏への橋頭堡のような役割なのだろう。仏像群が素晴らしい。
 最後に、豊川海軍工廠へ。平和資料館ができたことは聞いていたので、行ってみたいと思っていた。見事な展示、市民公園として今に生きる紹介方法。浜松とは、大違いだ。何だろう、この違いは。人々の生活意識の中に、文化や歴史を大切に思う気持ちがあるかないか。彼我の差に愕然とする。
 豊川=穂の国は、今日を皮切りにこれから何度も歩こう。souは美術部で、土日は時間があるので、一緒に色々また歩いて行こうと思う。暖かくなってきて、歩きたい。保険証のことは心配だけど、でも、時間を作り出して歩こう。

大知波廃寺を訪ねる&成年後見制度のこと~めぐみ農場日誌№143 21-27 Feb.2021

DSC00748.JPG2/21(日)早朝5時起きで朝食を作った後、白脇へ14パック出荷、その帰りに共販4ケース出荷。帰ってやっと自分の朝食。疲れた。録画しておいた「今からここは倫理です」をみる。すごい漫画家がいるものだ、と思う。詩人は、全ての事象を根底から眺めるからこそ、詩人なのだろうけれど、この漫画家も同じだな、と思う。
 シンク、風呂、トイレ、の掃除を終えた後、souが退屈そうだったので、以前から言っていた湖西連峰「大知波廃寺」へ出かけることにする。久しぶりにsouとの外出。大知波廃寺あとは30年ぶり。あのときは僕はまだ独身だった。友人と、発掘中のここを訪ねた。今回は、きちんと登山道がアプローチから整備されている。軽い気持ちで平装できたけれど、湖西連峰への大知波からの直登は、暑さのせいでへとへとになった。
 登頂して、考えたことが一つ。
 以前、宇志瓦塔遺跡や富幕山の播教寺跡から湖西連峰を眺めたときから考えていたことだけれど、湖西連峰の一番下、二川普門寺が入り口で、立岩・大岩は結界石だろう。そこから北につながる湖西連峰・北遠の山々が、平安時代の山岳密教の道場だったのだろうと思う。大知波廃寺はその拠点、聖域のシンボルだったはず。古代から中世前期にかけて、山岳密教や山の民が世の中の大きな領域を占めていた。その時代の生活空間が、この湖西連峰から北遠の世界。井伊氏のルーツもここにある。この大知波廃寺は、水が出る。墨書土器や瓦窯がある。おそらく、修験者の大きな拠点だったはず。
 その拠点がなぜ廃寺になったのか。それは、廃寺西の峰を越えて隣接する礎石建物と見晴らし岩を見たとき気がついた。見晴らし岩からは、浜名湖の宇津山城、対岸の堀江城、そして遠く曳馬城が全て遠望できる。ここは、今川の三河攻略の拠点になったはず。狼煙台になる。宇津山城の記録を残す連歌師宗長は、ここを越えて旅をしてたのだろう。山の民が後退し、今川など平野の近世武士勢力が進出する。そして、山岳密教のアジールは、囲い込まれ消滅していく。
 もののけ姫と同じ、古代中世から近世への大きな社会転換が、この大知波の峠にあるように思う。souにもそんな話をした。いつか、考えてくれるといい。
 夕方、白脇の売れ残った3パックを回収。白脇は、よく売れるけれど、遠いので、売れ残りがでたときのリスクが大きい。
2/22(月)朝、三方原ファーマーズに芽キャベツ3パック出荷。megを送った後4ケース収穫。東京の食材卸会社から5kgの追加注文。それを郵送してやっと遅いお昼。その後は疲れて寝てしまった。
2/23(火)天皇誕生日で休日だけれど、早朝のうちに2ケース収穫、これで明日の6ケース出荷の準備完了。その後、友人に火縄銃を借りに行く。10時過ぎに農場にお客様。若い社会科の先生に火縄銃をお貸しする。火縄銃の説明をしながら、お連れ合いとご両親も一緒の野菜の収穫体験。とても素敵な御家族で、幸せな体験だった。この農場の存在意義そのもののような体験ができた。夕方は、新タマネギを使って天ぷら。たくさんあげすぎた。
天皇の会見で、どうしても気になることを一つ。現天皇は歳も近く、結婚した時も近かったので、最初から気になっていた。それは、天皇が「雅子」と呼び捨てにしたことだ。結婚発表の時から、違和感を感じた。今も同じ。僕は妻と、さん付けで呼び合っている。学生時代の友達ならともかく、仕事を通して知り合った相手に、呼び捨てする付き合いはなかった。天皇も交際期間中恐らくそうだったはずだ。それがなぜ、結婚したら呼び捨てなのか。彼の後退と敗北は、ここにあるのではないだろうか。今からでも遅くはない。父のように、足元から振り返って、人間らしくあるために、制度と戦ってみたらどうか。
2/24(水)朝6ケース出荷、90ケース目。その後megを送り、帰宅後次の3ケース収穫。午後は塾、夜は合唱。今日は岸先生。岸先生の指揮は本当に素晴らしい。この指揮で歌えることは幸せだと思う。
2/25(木)megを送った後、3ケース収穫、昨日の分と合わせて6ケース梱包。畑じまいを見据えて前回と明日が出荷のピークになる。作業中に家裁から電話。後見人申し立ての書類不備。しかも、一番手間がかかる未登録証明の記載事項が違うという。チェックする位置が違った。たったそれだけで、東京法務局にもう一度申請しなければ行けない。うんざり。作業を終えたら、昼食を掻き込んですぐ再申請に取りかかる。
 この書類は、静岡地方法務局に出向くか、東京に郵送依頼するしかない。浜松の支部窓口では受け取れない。しかも、請求には血縁関係の戸籍証明が必要で、僕の場合自分と妹の兄弟関係を証明しなければ行けない。前回提出したときの戸籍証明は、西区役所に出向いて改製原戸籍を取得した。西区役所はコロナ禍なのにものすごい混雑で、待ち時間も長く、行きたくない。(改製原戸籍は以前は地元の協働センターにあったのに、今は区役所にしかない。これで区が統合されたら一体どうなるのか)
 で、協働センターで仕方なく父(死亡)の戸籍謄本(妹が載っている)と、自分の抄本(父から出生が分かる)の2通を取得した。申請書類の日付が元号だけになっているので、今回はそれもクレームを付けた。窓口対応の女性が混乱するけれど、仕方がない。自己嫌悪に陥ってしまう。
 で、収入印紙を再度購入して、やっと投函。これだけで3時間、費用1400円。これが返送されるまでまた1週間以上かかり、それまで家裁の面接はできない。診断書と並んで、この未登録証明の交付が申し立てのネックになっている。未登録証明は、家裁から法務局に紹介すれば済むのではないか。だいたい、戸籍制度そのものが、存在意義があるのかと思う。韓国は戸籍を廃止し 個籍にしたはず。
 欧米ではどうなっているのだろう。証明書類取得にかかる手間の膨大さを考えると、血縁関係の証明など何の意味があるのか。生計を一にしているという生活実態証明で十分なのではないか。そのために面接があるのだろうに。
 成年後見制度が、ケアラーの実態の即した制度ではなく、禁治産者の制度を受け継いでいるためにこんな苦労があるのではないか。登記することよりも、ケアラーの法的環境整備を優先する考え方で制度設計し直す必要があるんじゃないか。
今ある制度を利用しようと思ってもだめなんだ。そうではなくて、そういう制度を僕たちの世代で作り上げていこうと思わなければいけない。その為に生きていると思うことだな。
2/26(金)朝から雨が降り出した。予想外に本降りなので収穫作業を後回しにしてデスクワーク。午後になってようやく雨がやみ始めたので、4ケースの収穫を始める。雨が残り、おまけにカッパが破れて水がしみこみ、足全体がびしょぬれになっての作業。体温が奪われて、夕方には体が冷え切ってしまった。megを迎えに言ったらすぐ入浴。それでも体の低温が治らない。くたくた。
 226事件の日。北一輝、三島由紀夫、彼らの本質は、女性に対するあまりにもお粗末な、児戯に等しい認識が、彼らの世界観の根底にあること。彼らを美化する人間もまた同じ。たいてい、ご飯の炊き方を知らない。今回のオリンピックジェンダー騒動も、海外から指摘されてやっと表面的に騒いでいるだけ。どこまで皮膚の中まで入って社会の認識が変わるだろうか。
2/27(土) 朝食を作って、布団を干し掃除を済ませたら、芽キャベツ4ケースの検品と梱包。いよいよ終わりに近づいてきた。午後は、ジャガイモの植え付け準備をしようと思ったら、NTTの請求が先月から跳ね上がっていることに、miが気が付いて、ひと騒動。ドコモのコールセンターに電話していろいろ訪ねるけれど、一括請求の内容がわからない。どうしてだろう、と考えていて、書き換え前の通帳を見ていてやっとわかった。固定電話の請求と携帯の請求が統合されたからだ。なんで、あれだけ広告メールを送るなら、先月の段階で請求を統合したというメールを送らないのか。オペレーターも、気が付かないのかなあ。
 ほっとして、夕方、ジャガイモ植え付けのための畑作り。土が暖かくなっているのがよくわかる。今日はmachiの誕生日。春が来る。季節が変わる。気持ちを切り替えて、次の季節に向かっていこうと思う。

畑の新玉ねぎで豚丼~めぐみ農場日誌№142 14-20 Feb. 2021

IMG_9434.JPG2/14(日)朝5時起きで朝食を作ったら、白脇ファーマーズへ。芽キャベツ大パック13個を出荷、その後大人見の農協出荷場に芽キャベツ3ケースを出荷。帰ってやっと自分の朝食。白脇に行ったのは久しぶりだった。それでも、白脇は三方原に比べて売れるので、苦労するけれどやりがいはある。今日も午前中で完売した。良かった。
 あそこは、向かいにイスラミックセンターがあって、ムスリムの人がたくさん買いに来て、新しい野菜がよく売れる。あの人達に食べてもらえると思うと嬉しい。
 午後は、確定申告(青色)の準備。昨年末に年末までの出納簿をエクセル処理してあったので、2時間程で全ての書類を完成した。今年は初めて農業所得を計上できた。うれしい。
2/15(月) 大雨の中をsouが登校。この子は車で送迎したことはない。
 午前中申告書類の最終整理、投函準備。まだ雨が続いていたので、さきに夕食の下ごしらえ(里芋をゆでる)をしておく。午後になって雨が上がったので、泥まみれになりながら芽キャベツ30kg収穫。その後確定申告投函。夕食作り。里芋と豚肉、葉野菜の中華うま煮。
2/16(火)megを送った後、2ケース収穫、昨日の分と合わせて5ケース梱包。ほっとしたところへ、東京の食品卸会社から芽キャベツ5kgの注文が入る。嬉しい。早速準備してゆうパックで送った後、母を連れて外出。souの市内美術部写生大会金賞の展示を見に行く。母にとってはこれが一番の元気の素だろう。
2/17(水)朝megを送った後、3ケース収穫。そのご友人用の野菜を収穫、梱包。午後は塾、夜は合唱。新しい市民音楽ホールのオープン記念合唱団の募集が始まった。松下耕さんの指揮で彼の歌を歌う。数年前一度、京都でアルティ音楽フェスティバルに、machiにあうために行ったことがあって、そこで松下さんが指揮を振っていきなり会場で歌ったことがあった。京都の合唱の聴衆のレベルが高いことにびっくりした。浜松ではどうなるのだろう、と心配になる。
 練習回数が多くて生活にしわ寄せが来そうだけれど、まあ、何とかなるかな。申し込んだ。
2/18(木)寒波到来。2日前の暖気とその差があまりにも極端。午前中2ケース収穫して、昨日の分と合わせて明日の5ケースを梱包。東京の個人のお客様から、2kgの注文が入ったので、急遽ゆうパックにして送る。ありがたいこと。
 春タマネギが、大きくなってきた。明日ファーマーズに出荷する準備。
2/19(金)朝芽キャベツ5ケースを共販出荷した後、久しぶりに三方原ファーマーズへ。タマネギ3個入り7パックを出品。帰宅して、次の芽キャベツ4ケースを収穫。芽キャベツも最後の追い込みに入ってきたので、時間勝負でどんどん取っていく。さすがにへとへと。
 午前の作業をやっと終えたら、年金確定通知が届き、後見人申し立てに必要な最後の書類も東京法務局から届いた。よかった。まず何よりさきに、静岡家庭裁判所浜松支部に、後見人申し立ての書類を送る。電話で事前に確認してから、郵送。窓口の家裁の、たぶん調査官だろう、とても安心できる語り口でほっとする。これで、申し立ては済んだので、後は家裁の面接と審判。早く、上手く届け出が済むといい。母が元気なうちに。
 年金も11月の誕生日から3か月経って、やっと確定した。精神的な安心感が大きい。夕方は、明日のアンサンブルの仲間に渡す野菜の収穫と梱包。新タマネギが喜んでもらえるといい。
2/20(土) 朝、昨日準備した野菜をたくさんパック詰め、やっと終了して、布団を干したらすぐアンサンブルへ。疲れて、声が出ない。二つに音が割れてモンゴルのホーミー(二重声)のようだ。合唱は、声は出ないし、テンポは間違えるしでさんざんだった。でも、野菜が喜んでもらえて良かった。
 帰宅して、明日出荷の4ケースを梱包し、残りは白脇に出す準備。ほっとしたのもつかの間、叔父が耕耘機の具合が悪いという。離れた畑まで行って大急ぎで修理。良かった、もう少しで壊れるところだった。ついでに、耕耘機を使って叔父にかわって荒起こし。帰宅したらもう夕方なので、夕食を作る。
 新玉と豚肉があったので、豚丼。つゆだくさんでとろける味。これはうまい!色々大変だけれど、季節の野菜、それも自分で作った野菜で家族の夕食をおいしく作れるというのは、幸せなことだ。ありがたいと思う。みんな元気で、この日々が続くといい。

野島謙司 五首連歌「天竜川 木火土金水」

IMG_9418.JPG 寒波の中、今日の芽キャベツの収穫を終えたとき、叔父の表題作が掲載された「県民文芸」を手渡された。準奨励賞に選ばれ、表彰式は次の日曜に予定されている。しかし、その叔父は一月前に他界し、出席できない。享年72歳。この五首は、叔父の葬儀で弔辞として代読したけれど、まだ公にはできなかった。作品が発表され、やっとここに記述できる。
 叔父は、1948年生まれ、浜松北高19回卒の先輩でもある。歴史地理が好きで、半年程前、この本をあげると言って、手渡されたのが藤岡謙二郎編「日本歴史地理ハンドブック」だった。IMG_9218.JPG藤岡謙二郎は、北高の図書館の薄暗い書架でいつも眺めていた。おそらく、叔父も同じ本を、僕より9年前に手に取っていたことだろう。僕の父とは22歳違いで、叔父と言うより年長のいとこに近い存在だった。中学、高校、そして社会人に成り立ての頃、良く一緒に外出のおつきあいをさせられた覚えがある。
IMG_9419.JPG この五首連歌は、歴史地理が好きだった叔父らしい歌だ。たぶん、これが発表されたとき、「知ってるか恭一」と飄々と、軽妙洒脱に相手の知識を値踏みして声をかけてきたことだろう。叔父に答えるつもりで、ここにその読み解きをする。
 「木火土金水」は、陰陽五行の五行。月と日(陰と陽)に五つの自然を合わせて風水と時、方角を表す。木=甲(木の兄・きのえ)乙(木の弟・きのと)、火=丙(ひのえ)丁(ひのと)、土=戊(つちのえ)己(つちのと)、金=庚(かのえ)辛(かのと)、水=壬(みずのえ)癸(みずのと)。これが「えと」の語源。おじさん、これは知ってたよ。歴史の基本だからね。これでいいかい?(お、合格、と言う声が聞こえる)
 叔父は、色々なところを逍遙するのが好きだった。このところ数年は伊左地川のカワセミやコウノトリを見ていたはずだ。この五首は、叔父が天竜川を歩いた記録でもある。
 一首目。木の部 緩き山崩れ落つ山いずくにも直立し樹(た)つ天竜美林
 天竜川を船明から遡っていくと、両側に見事な天竜美林が広がる。その鮮やかな緑と山上に広がる青空。直立し樹つ。が、この歌の要だろう。一本の木になるその力。僕は聞く。「叔父さんは、龍頭山の尾根伝いにある杉の精英樹を見たことがあるかな。」(「ああ、知ってるよ」と言う声が聞こえる。
 二首目。火の部 日の本の火防せの神の火祭りの火矢は闇裂き四方(よも)に放たる 
 秋葉山を、春野の下社から登っていく。山頂までの中腹に、秋葉寺がある。廃仏毀釈で無住となった寺。でも信仰の教線は今も息づき、火祭りにはたくさんの人が集まる。冬の極寒の中で行われるその火祭りの行は・・・「秋葉寺は、いいなあ。奥の院をさまよったことがあるよ。でも、火祭りは僕はまだ行ったことがない。一度行きたいけどね」(寒いから、気を付けろ。創ちゃんを連れて行くといい)
 三首目。土の部 赤土は市松模様に広がれり 収穫終えし馬鈴薯の畑 
 叔父の家はうちの隣。その2階のベランダから眺めた、上の叔父が耕すジャガイモ畑の収穫の風景。時々、幼い創が手伝っていた。「そうだね、確かに芋を取った後が茶色で、取る前が緑の市松になるね」(「そのとおり。あれは、いい風景だな。創ちゃんがよく手伝うじゃないか」)
 四首目。金の部 廃鉱となりて久しき久根鉱山 建屋を覆い葛の花咲く 
 天竜川の対岸中腹にある久根鉱山の廃墟は、写真でしか知らない。「一度行ってみたいけど、まだ行ってないんだよ。車で行けるかな」(「何だ、まだ行ってないのか。だらしがない。」)
 五首目。水の部 沢の水数多集めて静もれるダム湖の水は伊良湖岬まで 
 佐久間ダムの巨大で深奥まで続く湖水。そうか、伊良湖岬まで、と言うことは、豊川水系まで導水されているんだ。「叔父さんの歌を詠むまで知らなかったよ。すごいことだよね。」(「そうか、知らなかったか。取水口と導水路を見に行ってみるといい)
 
 軽妙洒脱だけれど、いうべきことはきちんという人だった。「天皇制は要らない」と、親戚が集まる場所で何気なく、はっきり言う人だった。今頃は、71でなくなった僕の亡き父、純一と会話をしていることだろう。
(父)「早いじゃないか」(叔父)「兄貴に言われたくない。僕は1歳長く生きたよ」
(父)「やっぱりタバコがいかんかったな」(叔父)「それも、おなじだよ」
父はなくなる4日前に禁煙をした。叔父は入院する3日前まで吸っていたことを知っている。

 雪が降り出した。叔父は、この歌のように風と水になって、循環する何か大きな一部になっていることだろう。いずれ、僕にもそういう日が来る。四国遍路をしていた叔父と、何かの拍子に宗教の話しになったとき、「仏教は宗教じゃない」という。それに答えて、僕はすぐ、「あれは信仰じゃなくて、人生哲学だからね」というと、叔父は何もいわなかった。たぶん、「分かってるな」と合格印を押したのだろう。そうなのだ。信じてすがるものはどこにもない。ただ、どう生きるか、どう考えて行動するか、だけなのだろう。生かされているこの短い時間に、どう生きるか。どこを歩き、何を見て、何を考えるか、だ。残された叔父の歌から、そんな声が聞こえてくる。

石ノ塔古墳の最期~めぐみ農場日誌№142 7-13 Feb. 2021

DSC00686.JPG2/7(日) 朝2ケース出荷 59ケース目。シンク・風呂・トイレ掃除後、午後のアンサンブルで渡す芽キャベツの準備。午後はアンサンブル。今日はテノールが自分だけなので、録音を聞くと自分の音程の下がるところとかよく分かる。
 終わった後、中央図書館郷土資料室により、「伊左地川」の佐の誤記について資料に当たる。驚いたことに、市の発行の地図はすべて「伊佐地」つまり誤記の佐が使われている。郷土資料室にある市内地形図の河川図が根本資料だけれど、手書きで伊佐地川、小伊佐地川となっている。行政の恐ろしさを感じる。河川法による県への二級河川登録で、佐が使われると、市の行政の末端まで確実に佐に変更されている。伊左地川を使っているのは地元だけなのだ。国家・県・市という統治機構・行政がどちらを向いているか本当によく分かる。彼らは、絶対に改めないだろう。国家無答責そのもの。国土地理院地図は、伊左地川。ところが、浜松市史資料編に付録されている地理院地図は伊佐地川になっている。ここも「修正」したのだろう。その執念には恐れ入る。一体、行政とは何なのだろう。
 博物館発行の「伊左地町自治会文書」目録を見ると、合併前の伊佐見村が伊左地川の改修を県に要請した資料がある。全て伊左地川。1911年発行の浜名郡誌では、伊佐見村になる前の伊左地が、伊佐地村となっている。伊佐地村は浜名郡誌だけ。他は全て伊左地。
 もうどうでも良くなってきた。帰り道、舘山寺街道伊佐見橋に架かる県の河川標識をみたら「二級河川伊佐地川」だった。うんざりだな、と思って車を回し環状線を上がったら、仮屋坂橋の県の標識は「二級河川伊左地川」だった。うれしかった。
 夜、「麒麟が来る」最終回。本能寺の変の後の3日間をやってほしかった。フロイスの日本史では、その統治の近代性が垣間見られる。朴正煕暗殺後の数週間と同じ、ソウルの春とよく似た、畿内の春があったのだろうに。
2/8(月) megを送った後、次の出荷用3ケース30kgを収穫。早めに切り上げて、megの成年後見制度の書類準備。まず、伊佐見協働センターで住民票取得。ここでも引っかかることが。自分が書く要請書類の年月日指定が元号だけになっている。当局が出す書類が元号になるのはまだ分かるが、自分が書く書類はなぜ元号だけなのだろう。自分は元号を使わないと決めている。一応窓口の、正式の職員に「これ西暦ではダメなの?」と聞いてみた。この人は事務手続きに精通していて今までも手際よかったけれど、この時は即答で「日本国籍の人は元号で書いていただいています。西暦は外国の人だけ」
 忙しかったので、そのままにしたけれど、これは決定的におかしいのではないか。元号法は、行政機関は元号を使うよう推奨されているが、個人の意志を支配していないはずだ。先の天皇が「その・・・強制にならないようにね」と言ったとおり。浜松市のマニュアルが本当にそうなっているのなら、これはきちんと抵抗しなければ行けない。次はそうしよう。
2/9(火) 朝3ケース出荷62ケース目。午後は昨日に引き続き後見申し立ての書類準備。
2/10(水) megを送った後、収穫3ケース強。四季彩堂から小パック30の注文。個人のお客様から大パック10の注文。準備して納品したら、午後は塾講師。終わってmegを迎えに行き、入浴させたらすぐ合唱。今日はタンホイザーをオケあわせでアクト大ホール。水曜は本当に忙しい。
 フルオーケストラの後ろで歌うのは心が晴れ晴れする。まして、ワーグナーなので、全身が解放される感じがする。至福の瞬間。
2/11(木) この「祝日」を記念日と誤称する場面が増えた。記念の日だ。「の」を省略する人は、もう一度なぜ「の」がついているか勉強し直すことだ。それにしても、紀元節を復活させる勢力がいかに強固なことか、思い知らされる。よくもこんな日が休日になったものだと思う。戦後民主主義がいかに皮相で、弱いものだったのかを思い知らされる。今の右翼全盛は決して今に始まったことではない。この記念の日を復活させたときから、そうだったんだ。この国は民主主義ではない。清和会(自民党の単細胞反共集団)の政権とオリンピックの私物化という現状は、この背景があって当然生まれたわけだ。
2/12(金) 朝5ケース出荷。67ケース目。初めての5ケース。去年は6ケースが当たり前だったのに、今年はやっと5にできた。その後megを送り、四季の郷の職員から診断書用の「本人状況シート」をいただく。誠実に丁寧に書いていただいてありがたい。帰宅後すぐ3ケース強収穫。来週の出荷を毎回1ケースづつ増やすよう農協に連絡。午後は、地元の掛かり付け内科医に診断書を書いてもらうために状況シートを持参して書いてもらう。先週何とか頼み込んで、やっと書いていただいた。
 丁寧にお礼を言って、料金を聞いてびっくり。☑欄にチェックするだけなのに、5000円。普通の診断書3300円も高いと思うが、これはまだきちんと診断しているから仕方がない。今回は、状況シートと簡易検査、僕の説明だけではないか。状況シートを書いた施設職員は「職務ですから」と無料。規定の金額なのだと思うが、金の流れが決定的に間違っている。これで5000円なら、教師が書く調査書や通知表は5万円になる。  
 成年後見制度は、理念は立派だが運用はまだまだだろう。今回、印紙代と診断書で15000円ほどの負担。しかも、普通の親族では書類をそろえられない人の方が多いだろう。本人が他に後見登記をしていないという証明を、郵送で東京法務局から取らなければ行けない。窓口交付は静岡まで行かないとできない。障害を抱えた介護者が静岡まで行けるか。診断書も、町の主治医(普通は内科)にあまりに理解がなさ過ぎる。裁判所と医師会で制度普及の研修をしっかりやってもらいたい。今回もこの郵送手続きと診断書が一番苦労している。それでも、やっとここまで来た。後は東京法務局から書類が来れば申請できる。
 その後は、気を取り直して青色申告の準備。3年目の今年は初めて控除を上回る所得を計上できた。うれしい。
2/13(土) 朝、母とmegと連れて父の墓参、そのあと、布団を干して掃除を済ませたら、急いで石ノ塔古墳説明会へ。天井石が外され、石室が公開されている。内側に斜めにきれいに積まれた玄室壁。見事な大きさの2枚の鏡石。そして、玄室の底に敷かれた沢山の丸石。この技術は見事なものだ。都田から新原に至る見徳古墳・向野古墳の渡来人の技術とよく似るけれど、丁寧さは及ばない。おそらく、古伊左地の首長と民衆がその指導を受けて拙いながらも一生懸命作ったんだろう。盗掘を受けてはいるけれど、耳環、鉄鏃、鉄の刀子がでている。まぎれもなく古伊左地の小首長の墓だ。群集墳ではなく、この共同体の指導者と成員のシンボル。多分、古伊左地の人たちみんなで河原の小石を拾い集めて床に敷き、根本山から大きな切り石を手作りの修羅に乗せて引っ張ってきたのだろう。今日を境に、完全に破壊される。
 高3の時伊場遺跡問題が起こった。生徒会執行部で、シンポジウムを立ち上げたが、その場で、社会科研究室の先生同士で論争が始まった。それが17歳の僕に出来る精一杯のことだった。そして、僕はその破壊を目の当たりに見てきた。それから45年後、中学の時から追い続けた石の塔古墳が目の前で壊される。
 高校の時と何一つ変わっていない。伊場遺跡を壊してアクトの墓標を作る。家康君とよんで、ため口をきく。そして、地域の古墳は、地域住民から忘れられる。歴史を忘れ、今の元気だけに関心を持つ。過去を大切にしない。振り返り考えることをしない。さびれる伊左地の人々には、古墳は元から忘れ去られていて、この発掘報告に関心を持つゆとりはない。
 嘆いていても仕方がない。こうやってたくさんの人や物が埋もれてきた。戦争の死者も同じだ。この畑から、そうでない人の記憶の在り方を作っていこう。埋もれさせないつながりを作っていこう。

めぐみ農場日誌№141 31 Jan.-6 Feb. 2021

IMG_9278.jpg
1/31(日)朝共販3ケース出荷。シンク・風呂・トイレ掃除 その後収穫4kg。アンサンブルの人たちに渡す分。午後はアンサンブル。abendliedと、みかんの花咲く丘がとても美しい。みかんの花咲く丘は、亡き父が良く歌ってくれた。父が戦後師範を出て最初に赴任したのが沼津の中学校だった。その頃伊東を舞台に作れた歌だったからだろう。今原稿を書いてる「森の水車」と同じく戦後平和主義の歌、といっていい。
2/1(月)megを送ったらすぐ通常収穫28kg。午後はハーモニー「歌碑を訪ねて」の「森の水車」の原稿を書く。書き終わって録画の「天気の子」を見る。夜遅く、そのストーリーのような、激しい雨と雷雨。「天気の子」も「君の名は」も、時代の雰囲気を反映した終末思想の映画という気がする。
2/2(火)meg送り後、収穫20kg明日の出荷分4ケースに梱包。午後は塾講師。「森の水車」の原稿で思わぬところからトラブルが。伊佐見小学校長にゲラを読んでもらったら、「伊左地川」の左が、地元では最近左でなく、佐を使う場合があるという。伊左地川の自然保護の会で小学生にポスターを依頼するときに混乱しているようだ。
 伊左地町 佐浜町 古人見大人見町の3つの文字を取って「伊佐見地区」したがって、伊左地を流れるこの川は伊左地川、佐ではない、と言うことはこの地区に生きる人の常識なのに、どういうことだろうと思って調べたら、県の河川管理課で二級河川登録名が伊佐地川になっているらしい。そんなバカなことが、と思ったけれど、県の登録がそうなっているので河川起点標識も伊佐地川の看板になり、ネットにもこちらの字が出回り始めている。
 おそらく、二級河川に登録されるとき、何らかの理由で(おそらく誤記)で佐の字を使ってしまったのだろう。それがそのまま登記されてしまったのではないか。愚かな、ばかばかしいことだ。人為的な、道路の路線名ならともかく、自然地形の川の名は末代まで続く地域のアイデンティティ。県にメールを打ったが、修正されれば良いが、人名の戸籍登録と同じで、改めるのはハードルが高そうな気がする。これから、川の名だけはにんべんが付く、と教えるのか。根拠のない間違いが一人歩きすると思うと情けない。もし、根拠があるなら別だが。
 ちなみに、江戸時代の古文書では、元和年間(1616年頃)の古人見自治会文書ではイサミ、サハマはともに仮名表記。慶長年間(1640年頃)の伊左地町自治会文書では伊佐地。これだけが伊佐地。ただし、これは、神ヶ谷村とのトラブルの示談書で、神ヶ谷村からの詫び状。おそらく、格上にするために、わざとにんべんを付け嘉祥字の佐にしたのだろう。後は検地帳など全て伊左地。
 明治に入って、地籍調査を浜松県に出したとき、伊左地と佐浜が確定している。そして、その時は伊左地川という呼び名はまだなく、谷上(やかみ)川筋と記述されている。谷上は伊左地川上流の集落。伊左地と佐浜は江戸時代から境界争いなどで仲が悪く、たぶん佐浜に格上の佐を当てたのだろう。佐のにんべんは繰り返すが、嘉祥の字。だから、近代以降、伊左地川ににんべんのの佐はあり得ない。ふるさと創生事業で編集された「湖と花と緑の里伊佐見」(1997)など地域の本は、当たり前のことだが伊左地川と全て統一されていて、伊佐地川などあり得ない。国土地理院地図も全て伊左地川。
 これから、県がどういう回答をしてくるのだろう。地名は地域住民のもので、県の役人のものではない。問題は、学校の先生が、県の間違いをそのまま子どもたちに教えることだ。県が間違っていたら、上に向かって修正を要求する発想が、彼らにあるだろうか。
 夜は、megの歯磨きを済ませ寝かしつける前になってから、明日が立春であることを思いだした。忘れていた。大急ぎで節分の鬼のお面をかぶって、豆まきをやる。
2/3(水) 立春。朝4ケース出荷53ケース目。megを送ってから収穫30kg。午後、今日は塾がないので空いた時間でmegの成年後見制度申し立ての準備を始める。母が元気なうちに手続きを済ませないと大変なことになる。制度概要と書類一式の理解に数時間かかる。夜は合唱。立原道造作詞山下祐加さん作曲の組曲「燕の歌」から「唄」を久しぶりに練習する。この美しさは、何だろう。立原道造を読んで見ることにする。今日から、愛唱歌は「夜の歌」。なつかしい。
2/4(木) meg送り後、東京の友人に5kg発送。その後収穫20kg、明日出荷の4ケース梱包。午後はいよいよ成年後見の書類準備。まず診断書。主治医の作成承諾を得るのに苦労する。制度と制度の谷間で、こういう苦労があるのだ。乗り越えていかなくては。
2/5(金)朝4ケース出荷57ケース目。meg送り後次の出荷用10kg収穫。早めに作業を終え、デスクワーク。まず依頼されたハーモニー原稿を合唱連盟本部に送信。次いで成年後見の書類ダウンロード。ぜんぶで18枚あるので、一つ一つ片付けていくことにする。夕方megの歯医者。知的障害や精神障害、自閉の子の歯医者や内科医は、安定してみてもらうところを得るのが本当に大変。今の歯医者は本当にありがたい。内科医は・・・
2/6(土)朝、農場にお客様直売13パック。素敵なご婦人。春の陽気で、布団を干し、家の掃除。午後は、高校の同級生3人が農場にお客様で見えた。卒業して45年、こういう出会いがあることが嬉しい。「不ぞろいのリンゴ達」にこんなシーンがあった気がする。みんな、これからだ、と思う。

追記(2021.2.18)
その後伊左地川の佐についていくつか調べてみた。博物館の伊左地町自治会文書でもう一度確かめる必要があるが、まだ見れていない。ただ地元自治会の文書は今のところ全て伊左地川。市/県の行政の地図/文書は伊佐地となっている。おそらく1964(昭和39)年の新河川法で伊左地川が二級河川に登録されたとき、何らかの理由で(おそらく誤記)伊佐地川となり、それが正式呼称として行政の末端まで統一されてきているのだろう。町名、字名を行政が一方的に改変するのと同じ。地元の人は、何の関わりもなく伊左地川とかいているのに。情けないのは、その根拠が全く分からず(おそらく誤記だろう)、混乱の原因になっていること。
 伊佐見小学校が1978(昭和53)年に作った郷土学習副読本「ふるさといさみ」は、見事に川だけ伊佐地川に統一されている。いかにも、上意下達の地教委と義務教員のやりそうなこと。こういう郷土教育は、戦争を末端まで浸透させる戦前の皇国皇民化教育と全く同じ思考回路だろう。判断を、自分と地域の目線でするのではなく、上に聞く。そして、その根拠がなんだろうと関係なく、下に押しつける。たぶん、この「ふるさと伊佐見」を読んだ子は「なぜ伊左地川だけ伊佐地なの?」と聞いただろう。そしてたぶん、先生は「川だけは正式には伊佐地だよ、県の登録がそうなっているから」と答えただろう。そうやって、子供は地域から離れて国家や行政の統治機構に取り込まれていく。
 今回も、発端は合唱連盟機関誌ハーモニーに書いた「森の水車」歌碑の紹介文を、伊佐見小に事前に見せて、その時伊左地川は伊佐地川ではないか、と言うご指摘をいただいたことからだった。自分は、修正はお断りした。地域(子供/自分)の目線に立って判断する、そういう思考回路こそが大切だと、心の底から思っている

めぐみ農場日誌№140 24-30 Jan. 2021

清水書道塾2.jpg1/24(日) 昨夜の叔父の葬儀の疲れが残る。終日雨で気分も滅入りがち。葬儀のために収穫出荷も休んでいたので、体も動かせない。
1/25(月) 収穫再開。雨が上がって、空気が入れ替わり、春の陽気。
1/26(火) 東京のお客様に直売2kg。喜んでもらえてありがたい。
1/27(水) 未明に雨、その後朝から晴れ。朝農協2ケース出荷。その後収穫。このところ収穫は泥まみれになってやっている。雨と暖気で玉が一挙に成長してきた。 昼はヤマハ本社の直売23パックを届ける。午後は塾、夜は合唱。全日本合唱連盟機関誌Harmonyからうけた、「歌碑を訪ねて」の原稿依頼。伊佐見小の「森の水車」について、取材の手はずを整える。伊佐見小と清水みのる生家に連絡を取る。
1/28(木) 再び雨の中を収穫。大きい球がたくさん捕れる。瀬戸内に住む大学時代の友人に芽キャベツ2kgを送る。40年ぶりのコンタクト。43年前、一人旅で瀬戸内の彼の家に寄ったとき、瀬戸内海獲れたてのシャコを、大鍋いっぱいごちそうになった。そのお返しをしたいと思っていた。ネットをきっかけに年賀状のやりとりが数年前から再開したので、思い立って送ってみる。今しかいい玉は取れないし、来年になったらどうなるか分からない。一期一会で思い立ったときにやっておかなくては。
1/29(金) 朝2ケース出荷。寒波到来。ものすごい風の中を収穫。玉がどんどん大きくなっているので、来週の出荷を増やすことにする。午後は伊佐見小に歌碑と「清水みのるの部屋」を取材。自分としては、清水みのるよりも、清水書道塾の清水貫一先生をもっと取り上げたい。清水みのるの部屋にあった写真を集めた額縁を見入っていると、その中に45年前の8歳の自分を見つけた。笑っている。ああ、あの環境をよく生き延びたものだと、切なくなる。あの笑顔を作り出す何かがあったからだろう。
 図書館司書お勧めの本の中にあった「氷室冴子初期作品集」を読み終える。氷室さんは僕と同い年だったのか。性暴力に苦しむ少女を描いていて、時代の制約もあるけれど、その着眼点は肯定されて良いように思う。今ならどんな表現をするだろうか、と考えてしまう。
1/30(土) 午前中、清水みのる生家(兄の清水貫一のご子息宅)訪問。昔から残るたった一つの風景、ソテツを写真に納め、話を聞く。その後、その姉に当たる方を紹介されて訪問。幼い自分を知っていて、写真に撮ってくれた人だ。
 話を聞いて、色々考えさせられた。サトウハチローがでたらめな人間で、身近な周囲には害毒でしかなかったことは知っていた。清水みのるも、そして貫一先生も、妻や娘にとって、ハチローほどではないが、暴君だったことがわかる。同じ風景が広がっていた。ピカソの娘の手記と同じだ。男が、特に日本の男が作った近代が、なぜこんなにダメなのか、しみじみ考えさせられる。
 伊左地の幼児教育を立ち上げたのは、清水貫一先生の妻、いささんだったこと、清水家を支えたのはいささん、みのる貫一の母いわさん、という二人の女性だったことを知った。いささんは、戦後間もない頃、あの封建的な農村伊左地に保育園を作る。高度成長前、専業主婦が普及する前、女性に労働と家事の両方がのしかかっていたときだ。男は労働と酒。
 苦労して立ち上げた保育園、幼稚園は、伊左地だけでなく、古人見、佐浜にひろがる。いささん(伊左地)、みさ先生(佐浜)、ともゑ先生(古人見)という3人の女性達。この人達こそ、清水みのる、貫一先生を超えて、きちんと記録し世に出されなければ行けない。苦労して立ち上げた幼稚園は、やがて伊佐見村の男達、村長や教育委員によって無理矢理村に買い取られ、村立、そして浜松市立の幼稚園にされていく。彼女たちは最後まで抵抗したが、男達に囲まれて、屈服する。その歴史は、男達によって封印されていた。
 戦後初期の、女性達が立ち上がって起こした私設幼児教育・保育園について、これからきちんと調べて記録に残していきたいと思う。清水みのるの記事を書くことが、意外な方向に広がっていったけれど、これも何かの導きだろう。こういうことは、聞くこちら側にそういう感性がないと、聞き出せない。日本社会のジェンダーがなぜこんなに強固で根が深いのか、と考えていて、それは他でもない、自分の感性が鈍磨しているからではないか、と考えている。自分が、身近な人間にとってどうなのか、もう一度注意深く振り返りながら進んでいこう。